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日本は人類歴史の「パンドラの箱」 [書評]

なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)

なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)

  • 作者: 加瀬 英明
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2012/08/01
  • メディア: 新書
ここ最近安倍首相の発言や外交活動により各国のマスコミが騒々しい。
例の如く日本のマスゴミは「叩く」か「煽る」かのステレオタイプだ。
その根底にある論争の起源を冷静に探り、かつ明晰な理解をもたらしてくれる情報にはなかなかお目にかかれない。
しかしそれらの疑問に事実関係と歴史的俯瞰をベースとして簡潔な答えを与えてくれる非常にありがたい新書を見つけた。
そこには近代日本が欧米列強との関係の中で突き付けられた課題、そこから浮かび上がってきた日本人の長所と短所、そして意識転換の必要性が指摘されている。 
まずは日本の平和が虚構の上に成り立つ代物であるとの意見を引用する。
戦後の日本の平和主義は、日本が国家であることをやめ、外国の被保護国として安逸な環境に馴れるうちに、国民のあいだに定着したものである。
国民の多くが日本が「平和主義国家」であることを誇ってきたが、他人委せのの贅沢を見せびらかして、自慢するのと同じように浅はかなことだ。他人委せの平和を誇ることはできない。日本国民には、平和を愛していると言える資格はない。
戦後、アメリカの絶対的な軍事保護が、日本人から国家意識を失わせるのに当たって、決定的な力を持った。日本はどの独立国であっても持っている建国の精神を、忘れてしまった。
今日の日本の類例がない平和主義が、前大戦における惨惜たる敗戦の反動として生まれたというのは、まったく事実に反している。将来、もし、アメリカが日本を守ることがなくなったら、今日、平和主義を信奉している日本国民までが、防衛体制を強化する道を選ぶこととなろう。戦後の日本の平和主義は、御都合主義であり、まやかしでしかない。
国家の独立を自助努力によって守るのは、どのような国家にとっても、国家として在立を確保するに当たって求められる。日本にいまだに国旗国歌があり、国家であることを嫌い、自衛隊を疎かにする人々がいるが、日本が国家であってはならないと考えているから、反対しているのだ。
日本が国家であることを否定することによって、国家を形成する責任から解放されたから、放縦に暮らせる特許状を手に入れたようなものだった。
先の戦争について、日本国民のあいだに日本が絶対的な悪であったのであり、戦勝諸国が絶対的な善であったという東京裁判史観を安易に受け入れて、日本だけに咎を負わせることが、いまだに流行っている。日本が罪深く、危険きわまりない国であれば、国家としての責任を担う資格がないことになるから、都合がよかった。
・・・日本では得体の知れないものが、権威をもって横行していることが多い。日本民族を特徴づけている和の力は、善用されればよいが、しばしば自らを傷つける両刃の剣となる。
日本では本当は実態が乏しく、内容が不十分なものであるのに、そのものにあたかも大きな権威があるかのように、つくりあげてしまうことが多く見られる。たとえば憲法にしても、現実にまったくそぐわないのに、改めることができない。金縛りにあったような状況が、続いている。
憲法について、コンセンサスがあるのだ、といって、このコンセンサスは全員がよく考えた結果として、生まれたものではない。
どうして日本では人々が得体の知れないものに、寄りかかるのか。このようなことは、ほとんどの日本人が成熟した自己を持っていないことから起こる。
不十分で、中途半端な自我形成しか行なわれていないのだ。自我の中心が自分のなかにないので、自分を一人の人間として意識することがない。自分の大部分を集団に委ねていると、つねに集団のコンセンサスがどこにあるのか、気を配らなければならない。
そこで、全員でさぐりあうことになる。みんなでさぐりあううちに、実態のないような中心が生まれる。
これは無責任なものだ。ところが、全員がこの得体の知れない中心に、寄りかかることになる。どこにもないものであり、実態がなくても、コンセンサスであるから支配的な力を持つ。
コンセンサスは冒しがたい権威を備えて、独り歩きを始める。日本国憲法は、このような得体が知れないコンセンサスの代表的なものだ。
敗戦までは、新間がこのような得体の知れないコンセンサスを、支えてきた。満州事変以降、新間が軍国主義熱を、さかんに煽った。
戦前は「無敵日本」とか、「神州不滅」といったスローガンによって代表されたコンセンサスが形成されて、国民の思考を呪縛したために、現実に即した議論を行なうことができなかった。日本は知的な逞しさがない国となってしまつた。今日の日本はかつての軍国主義が、まやかしの平和主義によって擦り替えられただけで、同じように無責任なコンセンサスによって、自らを縛っている。
一方、著者は日本人が自分たちの誇るべき歴史さえ忘れさせられていると説明する。 
今日、当然のことになっている人種平等の世界は、日本の力によってもたらされたものである。
先の大戦は日本が切羽詰まって自衛のために立ち上がった戦争だったが、多くの日本の青年がアジアの解放という夢のために、生命を捧げた。
日本によって、世界のありかたが一変した。それだけに西洋諸国による報復も、すさまじいものだった。戦争に勝った連合国は、日本の輝かしい歴史を抹殺することを、はかった。
・・・日本は第二次大戦で、アジアの国々を侵略したとされている。
しかし、どうして侵略をする国が、侵略をされた国の青年に軍事教練を施し、精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国にわたって作り、近代組織の経営方法を教えるということがあろうか?
この事実はとりもなおさず、侵略したのが日本ではなかったことを、証明している。
日本がアジアの国々を侵略していた西洋諸国から、アジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を惜しまなかったと見るのが、正しい認識であると思える。
もちろん、日本は「自存」のために、大東亜戦争を戦ったのであって、アジアの解放のために戦ったのではなかった。しかし、いったん戦端が開かれると、アジア人のためのアジアを創造する強い情熱に駆られたことも、事実である。これこそ、日本人による大きな国際貢献だった。
・・・アジア・アフリカに、数多くの独立国が生まれた。もちろん、これはキリスト教の神の御旨に背くものだった。
日本は二十世紀の人種平等の神話をつくることによって、日本太古の国造りの神話を、二十世紀になって再演してみせた。新しい世界を生むことになった神話を、人類のためにつくりだした。
日本こそ、人類の希望だった。
ペリーは「パンドラの箱」を、開けたのだった。
読み終わってから、ルネサンス後20世紀に至る近世500年の歴史を振り返ってみた。
そこには欧米の圧力に翻弄されたアジア・アフリカ諸国の苦難とそこに立ち向かう始点となった日本の歴史が見えてきた。
歴史の困難な課題に日本人が係ってきたこと、その代価としての歴史的重荷、国勢の凋落、先人たちの苦悩、、、すべてが我々に課された十字架となっていることに心が揺さぶられる思いだった。
これらの主張が直ちに日本人の意識転換をもたらすことは難しいだろう。
しかし今後の潮流の中でいつかは消化してゆかねばならない課題であることは疑いの余地がない。

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